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清水薬草有限会社×会津の薬草文化

問屋が守り伝える地域の薬草文化

会津の宝といわしめた大きな人参。会津では各家庭に人参の焼酎漬けがある

暮らしに根づいた生薬問屋という存在

昭和21年に生薬問屋として開業した清水麗億商店。のちの清水薬草有限会社は、平地と山間部がバランス良く存在する、会津盆地の北部、喜多方市にある薬局であり、生薬の卸を行う問屋です。会津の自然が育むドクダミ、ゲンノショウコやキハダなど、様々な種類の薬草を集荷して、各地の漢方薬メーカーや薬局に卸しています。
喜多方の人たちと民間薬の話をすると、たびたび清水薬草店の話が出てきます。「祖母がドクダミを摘んで買い取ってもらっていた」「トンボを捕まえると小遣いになった」身近なものを買い取りしてくれるので、こども達にとっても身近な存在でした。

今年採れたての人参

会津の薬草文化と「オタネニンジン」

会津の薬草文化にはもうひとつの特徴があります。江戸時代より続く、オタネニンジン(高麗人蔘)の生産です。日本国内で3カ所しか産地化に成功しなかったうちのひとつ(他は島根、長野)であった会津は、つい最近まで知る人ぞ知る人蔘の一大産地でした。

国産の人蔘は、生薬であると同時に、在来作物として、地域では野菜のようにも扱われています。かつて、最盛期には360戸の人蔘農家が170トンの生産に携わっていたころは、人蔘農家の知り合いから人づてにもらう、かたちの悪い人蔘やひげ根などをつかって、天ぷらや和え物、また焼酎漬けとなり、地域の味として食文化を作り上げました。良い人蔘の大部分を引き受けていたのが会津人蔘農協です。農協で取り扱われていた人蔘の7割が、香港や台湾に輸出されたといいます。ところが、輸出を中心とした生産だったため、変動相場制の導入や円高の影響により、価格は大きく下落、生産者やそれに携わる卸等の関係者は減少の一途をたどりました。

山と耕作地が隣り合うから豊かさが生まれる

会津人参農協に残された人参の焼酎漬け

「農協」の機能を、民間で引き継ぐ

平成24年に会津人蔘農協が解散し、多くの組合員は人蔘生産をあきらめ、種をまくことをやめました。収穫までに畑で約5年を要する人蔘の生産の歴史は、ここで幕を閉じるかと思われました。しかし、会津の人蔘・薬草文化をここで終わらせてはならないと、清水薬草店の清水智さんと息子の琢さんは一大奮起、取り壊される寸前の農協の施設を買い取りすることを決意します。種をまかなかった時期があるため、収穫量が3〜5年ほど停滞するものの、人蔘の新規就農者10名を集めて会津人蔘栽培研究会を結成しました。栽培方法のノウハウを、人蔘栽培の名人に教えてもらう講座を開いたり、仲間との親睦を深めながら、今年の秋、新たに種をまきました。

新しい看板は、もとの農協看板の裏側に刻んだ

親子二人三脚で会津の人参文化を支える

会津で集められる薬草を乾燥させる

事務所内にある生薬。石や蜂の巣などもあった

今の時代だからこそ、自分たちの役割がある

薬草を集荷してくれる農家さんとの絆や、製品化する工場、販売する薬局機能も持っている清水薬草店は、自社でしかできないことが多々あると、清水琢さんは言います。こどもの頃から、生薬の原材料の集荷に、農家さんや林業者さんの現場にお父さんとトラックに乗っていくのが好きだったという琢さん

「荷台が、行きは空だけど、帰りには屋根より高くずっしりと重くなるのがなんだかうれしくって」と語ります。「このドクダミは乾燥が足りないから、来年は一言お願いしないと。このキハダの処理は丁寧で、束ね方がキレイだから○○さんのだね」と、仕入れ先の人の顔が琢さんの語り方から見えてきます。
一方で、日本の漢方業界は中国産生薬の価格高騰という問題に直面しています。レアアースのように輸出制限がかかりはじめた生薬がいくつかあり、日本国内の生薬は福島県など17都県の放射能の問題も含め、業界全体が過渡期を迎えています。薬用作物の供給量拡大と会津の地域づくりを同時に盛り上げようとしている清水薬草店は、他の誰にもできない企業ノウハウと地域とのつながりを活かしながら、漢方がもっと身近に、人々の健康に役立つよう、自ら土を耕しています。

薬草研究会会長の五十嵐さんが見せてくれたカキドオシ

東北開墾「食べる通信」の記者も取材に訪れていた

全国から集まる生薬を買い付ける

放射線量を落とすためにこれまでになかった洗浄の手間がひとつ増えた

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