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インテリア茶箱クラブ×茶箱

茶葉の引き立て役だった、
茶箱に光を。

時々、お茶屋さんや旧家の押入れなどにある茶箱。一見、ただの木箱のようですが、実はとても実用的。それは、100年前の新聞や60年前のウエディングドレスがほぼ黄ばみなく出てきたというほど高い保存力を誇ります。海外では「お茶の鮮度を保つために、日本人はなぜこんなに創意工夫を凝らしているんだ」と驚かれることも。一方、日本ではその価値があまり広まっておらず、衰退の一途を辿っていました。茶箱の機能性に注目し、国内外に魅力を発信し続けるインテリア茶箱クラブ。茶箱を産業として残すために奮闘するユニークな企業の約20年をご紹介します。


茶箱との出会い。

インテリア茶箱クラブを主宰するパイザー真澄さん(以下、パイザーさん)は、三菱商事、シティバンクと華々しいキャリアを重ね、二児を得て退職。そんな時に、偶然が重なり茶箱と出会います。それは、量販店にある子供の遊び場で知り合ったアメリカ人女性・カレンさんのご自宅に、友人と遊びにいったことから。そこで、藍染の布張り茶箱を目にします。友人が非常に興味を持ち、後日作り方を教えてもらうことに。通訳として同行したパイザーさんも、一緒に手を動かしてみると工作好きや凝り性という性格から、布張り茶箱にのめり込んでいきます。家にはどんどん布張り茶箱が増えいき、子供の幼稚園が一緒のお母さんたちからは習いたいと言われるように。それに応えるように教室を始め、その後、既製品販売・受注生産にまで発展します。最初の一つのみお茶屋さんから譲りうけた茶箱を使いましたが、その後は茶箱職人から購入するようになり、彼らとのご縁も生まれます。

サイズは、22種から選べる。茶箱工場で使う寸法は、今でも寸・分・厘。

茶箱の魅力

茶産業に力を入れている地方自治体は全国的にあるものの、その付随的な茶箱は地位も価格も低い。そのため文献はほぼ無いといえ、お茶や昔の茶箱ラベル(蘭字ラベル)の文献にほんの少し書かれている程度で、茶箱の歴史については職人の口伝が頼りになっている。

あまり注目されていないものの、茶箱は茶葉の鮮度を保つために作られているため非常に機能的。杉製の箱は内側にトタンが施され、防湿・防虫・防臭、そして空気を遮断するため酸化防止を叶えてくれる。しかも、国内外に運搬したり、そのまま量り売りをするためのヘビーユース用のものなので非常に頑丈。一説には、海外で紅茶が生まれたきっかけは運送中に発酵したからといわれるほど、緑茶を長期保存できる容器を作ることは困難で生真面目な日本人だけがその目的を追求してきたこともいえる。

 

内側のトタンが、茶箱の保存力を高めている。

時代に翻弄される、不運な茶箱。

なぜ、布張り茶箱がカレンさんの家にあったのか。それは、15年ほど前までは、大手の海外引越業者が茶箱をよく使っていたことから。半世紀前までは海外引越運送といえば、船がメイン。船での保管状態も良いとはいえませんでした。引越荷物は何ヶ月も洋上にあることが多く、ものが傷みやすかった時代です。そんな中、茶箱に入れたものは保存状態がよく高い人気を誇ります。それをきっかけに茶箱に対して既成概念がない日本在住の外国の方に知れ渡り、オットマンやチェストのように布張りするようになったといわれています。

静岡にある樹齢3~15年の杉の間伐材を、1~3ヶ月程度雨風にさらして、歪みや反りに強い材木にし、茶箱を制作している。

海外引越業者が茶箱を使いづらくなったのは、世界的な建築ブームがきっかけともいえます。諸外国が中国の木材を大量に仕入れていた際に病害虫が付着。病害予防のために、国際基準で木材梱包材の熱処理が義務付けされます。特に茶箱を多く使用していたアメリカでも2006年から義務付けが施行、茶箱もその対象となり、熱処理をしていることが必須に。売上の柱となっていた販路で使えなくなったことは茶箱業界に大きな打撃を与えます。その後、リーマンショックや3.11で布張り茶箱を楽しんでいた外国の方が続々と帰国。多くの茶箱職人が廃業に追い込まれ、茶箱組合は解散してしまいます。20年前は全国に12軒程度あった茶箱工場も、静岡にわずか6軒。なかでも、高い生産力を誇る工場は激減しました。

茶箱の本業ともいえる保存容器としての役割は、1900年代後半からアルミの真空パックに、運送箱としての役割は段ボールにとって代わられ、多くのお茶屋さんも懐古的な内装として使う等のために購入しているだけだといいます。

地元の産業・川根茶のために作られていたレトロな茶箱。静岡では、明治40年ごろから制作されていた。

のどかな町の職人と役場とともに。

パイザーさんが布張り茶箱を始めて時が経つにつれ、茶箱職人にもだんだん感情移入するようになっていきます。そこで、取引のある茶箱職人にこう問いかけます。「もし良かったら、茶箱を存続させる道を選んでみませんか」。さらに、「布を張って茶箱を楽しんでいる人が世の中にはいて、茶箱はすごくポテンシャルがあるものなんですよ。考えてみてください」と続けた。茶箱の評価に感銘を受けた茶箱職人は数か月の熟慮の末「やってみようと思う」とおっしゃったそう。その後、パイザーさんは川根本町役場に嘆願書を提出します。

川根で茶箱を作り続けてきた、茶箱職人・前田さん。

当時の町の人たちのなかには、「茶箱って、まだやってるの?」という人達も多くいました。ここでも、パイザーさんは、茶箱が日本在住の外国の人から注目されていることを伝え、うまくいけば必ず町の産業になり雇用が生まれること、問題を抱える杉山を有効活用でき林業にも貢献できる可能性があることを訴えかけます。すると、当時の町長が企画室に通してくれて協働することが決定。動きは緩やかで事業がスタートするまで10年以上かかりますが、縁あって当時の企画室長は現在インテリア茶箱クラブ川根支社の所長となり、産地と東京を結んでくれています。地元住民はインテリア茶箱クラブの川根支社を支え、茶箱職人は弟子をとり後進の育成を始めました。若手が加わって、年間5,000から2,000程度まで落ち込んでいた生産量も回復をみせ、町も協力的になっています。ただ、当初は60代だった職人も今は80が目前となり、厳しい状況であることには変わりないといいます。

地元に移住し、兄弟で弟子入り。様々な人の期待を一身に背負っている。

豊かな水量と豊富な森林に恵まれ、高品質な茶葉が育つ川根のまち。

残していくための適正価格。

さらに大きな問題は、価格。茶箱は歴史的にお茶産業の下支えをしていたため、もともとの価格は低く抑えられてきました。そして、業界の習いにより柔軟な価格設定が困難でした。

実は、同じ形のものを家具職人が作ると価格はほぼ3倍にまで跳ね上がるといわれます。茶箱は、内側にトタンを張るという特殊な技術や、数少ない職人が作ることで本来は希少価値もプラスされているはずなのに。

職人さんが家族ときちんと生活をしていける健全な産業になってほしいとの想いから、パイザーさんは15年ほど前から適正価格を探りつつ、少しずつ価格を上げています。また、“布張り茶箱”は有用性という意味で可能性を拡大します。友禅など高級な布を張ったり、脚や丁番をつけたり、座れるような加工等を施したりと、大きな付加価値を生みだすことができます。

国内外の様々なファブリックで、インテリア茶箱を楽しむことができる。

海外ブランドとの協業。

2011年に取引先の海外ファブリック輸入業者がウイリアムモリスの150周年イベントを主催します。この時、初めて百貨店(銀座三越)で”商品”としてのインテリア茶箱がデビュー、その後は全国の百貨店からもお声をかけていただくように。茶箱の魅力に気づいていなかった人にゆっくりとその価値を紹介する機会が増えていきます。

また、マリー・アントワネットも愛したといわれる更紗“トワル・ド・ジュイ”を所蔵するパリ郊外の”トワルドジュイ美術館”にはジュイを使ったインテリア茶箱が展示されています。そのほか、パリの“JAPAN EXPO伝統工芸パビリオン”に出展したり、在ウィーン日本大使館にて貴族の方などを招いてお披露目をしたことも。様々な形で外国の目利きが口コミで広げてくれるなど、海外にも着実に茶箱ファンが増えはじめています。

近代デザインに大きな影響を与えたウィリアム・モリス。数多いデザインのなかでも、ひときわ人気を誇るデザイン”いちご泥棒”。

18世紀にドイツ出身のプリント技師が、フランスのヴェルサイユ近郊の村・ジュイ=アン=ジョザスの工場で産み出した”トワル・ド・ジュイ”。

日本の伝統工芸品を身近に感じるツールに。

百貨店イベントの協業などをきっかけに日本の誇るべき伝統的工芸、京友禅・加賀友禅などの第一線で活躍する職人さんの知己を得て、茶箱のために意匠を描き下ろしていただく事も可能となりました。

著名な伝統的工芸士も、何としてでも自らの関わる日本独自の技術を後世に残したいという想いから、若い人にも作品に触れてもらう機会を模索されています。その意味でも、インテリア茶箱との協業はおもしろみのあるものとして協力をしてくださいます。

さらに、九谷焼や蒔絵など地域特有の装飾品とコラボレーションする機会も増え、今後は”ご当地もの”も展開できるとパイザーさんは考えています。

茶箱というとてもシンプルかつ高機能の媒体を使うことで、小さな世界に日本の優れた技術・文化を凝縮し、若い方でも何とか手が届く価格で展開することが可能になります。また、箪笥にしまいこんだ思い出の着物や帯などでのオーダも受けつけています。サイズは22種あり、空気を通さないことから米櫃やカメラなど精密機器の収納にしたり、仕切りをつけコスメ収納箱にしたり、大型のものは収納付きのソファーにしたりと、自由に楽しんでもらえます。

端午の節句や雛祭り用にも展開。時期が終わると、防湿・防虫・防臭の茶箱にしまうことができ非常に合理的。

茶箱を残していくために。

少しずつ広がりを見せると、布張りを習いたいという人だけでなく、自ら教えたい人も増え始めます。単発で自由に楽しめる”茶箱レッスン”は行っていたものの、それでは広がりに限界が。そこで“せっかく広まるんだったら、良質なものを”と、1年かけて丁寧に教える教室(インテリア認定インストラクターコース)を2004年に開設します。それは、“どんなものでも深く入り込むと際限がない”というパイザーさんの考えから。”茶箱”の持つ文化的な価値やおもしろみを伝え、その存続に皆が一役買う、という認識を持ってもらうことを含め、奥行きを感じてもらえるようなレッスンを心がけているといいます。2018年6月現在、認定教室は全国85カ所まで広がり、そのなかにはインテリア茶箱の職人として商品制作を請け負ってもらう人たちもいます。

また、2013年から日本ヴォーグ社との協業で、茶箱を含む手芸ディプロマコース”フレンチデコ”の構築にも関わりました。現在は”フレンチメゾンデコール”という名になって刷新された楽しいコースになっています。

習い事として、商品として、様々な形で茶箱を使い、楽しむツールを提供し、需要の掘り起こしに尽力しつつ、茶箱職人の人材育成に携わって供給を確保していく。

インテリア茶箱クラブはこのように静岡県川根本町の茶箱製造現場と常に密接な関係を保ち、町の人々と手を携えて新しい茶箱の文化を育んでいます。

「私たちがやっていることは茶箱という産業を残すこと」と力強く話すパイザーさんは、常に良質のものを提供することで確固たるブランドづくりに尽力している。20年間、熱い想いで走り続けたひとりの女性が、国内外や業界内外というボーダーを超えた人々を、今大きく動かしている。

川根本町にある茶箱専門店「前田工房」。

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